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Artist

李香蘭(山口淑子)

Title

私の鶯


watashino uguisu
Date 1943? - 1957
Label 日本コロムビア CA-4382(JP)
CD Release 1989
Rating ★★★☆
Availability ◆◆◆


Review

 渡辺はま子が霧島昇とデュエットでうたった不朽の名曲「蘇州夜曲」は、じつは服部良一が、李香蘭のために、李香蘭を思い書いた曲である。もとは長谷川一夫と李香蘭のコンビによる大陸三部作のひとつとして昭和15年(1940)に公開された東宝映画『支那の夜』の主題歌であった。
 この映画で音楽全般を任されていたのが服部。映画のなかでは李香蘭が渡辺はま子のさらに上をいく透明感あふれる美しいソプラノで「蘇州夜曲」を聴かせてくれる。監督の伏水修はこの曲がよほど気に入ったとみえて、映画の後半ではこの曲がくり返し使われ、ほとんどMTV状態。伏水監督は昭和17年に肺結核で他界。告別式に使われたのも服部の指揮による「蘇州夜曲」だった。

 話題がそれた。映画『支那の夜』は、竹岡信幸の作曲、渡辺はま子の歌でヒットした「支那の夜」に便乗して企画されたもの。肝心の中味はというと、ラヴ・ロマンスに託して、日本人の中国にたいするごう慢な態度がモロに出たお粗末なシロモノ。
 だが、当時20歳の李香蘭の美しさは特筆ものだし、しかも彼女の歌で「支那の夜」「蘇州夜曲」が聴けるというだけでじゅうぶんに鑑賞の価値はあると思う。

 また、歌はないが、服部が書いた「チャイナタンゴ」周[王旋](王へんに旋で一字)の歌で知られる「何日君再来」(ホーリーチュンツァイライ)、キューバの作曲家エルネスト・レクォーナが書いた名曲「シボネイ」などが随所で効果的に用いられ、音楽映画を得意とした伏水監督の面目躍如といったところ。ジャズ(欧米風ポピュラーソング全般をさす)は良俗に反するとして全国のダンスホールが一斉に閉鎖させられた昭和15年にしてこのモダンさは立派だ。

 ちなみに、映画『支那の夜』の前年に公開された長谷川一夫・李香蘭共演の第1作『白蘭の歌』の挿入歌「いとしあの星」も服部の作品(こちらは満州=ロシア調!)で、こちらもレコードでは渡辺はま子が、映画では李香蘭がうたっている。
 どうしてこのような“ねじれ”が起こったのかというと、当時、作曲家はレコード会社と専属契約を結んでいたことから、同社所属の歌手によってしかレコード化できなかった。服部良一はコロムビアだったが、李香蘭はテイチク所属だったのだ。
 
 テイチク時代の李香蘭の音源はほとんど復刻されていない。知るかぎり、『再発見・ニッポンの音/芸[7]アジアン・コネクション』(テイチク TECR-20177)収録の「何日君再来」「夢の太湖船」の2曲あるのみである。
 テイチク時代はほとんどヒットに恵まれず、コロムビア移籍後の昭和15年10月に発売された「紅い睡蓮」によってはじめてレコード歌手として花開いた。



 「紅い睡蓮」は、西条八十作詞、古賀政男作曲で、大陸三部作の第3作『熱砂の誓ひ』の挿入歌。現在『夜霧の馬車』(日本コロムビア CA-4381)のタイトルで発売されているCDの冒頭に収録されている。
 最悪なのは「花の北京の 灯点し頃を 妾しゃ夢見る 支那娘 芙蓉散れ散れ 君待つ窓に 花は九つ 花は九つ 願いは一つ」とあるはずの1番の歌詞がまるまる削除されていること。「支那娘」という表現が差別的との判断からの自主規制なのだろうがバカバカしいにもほどがある。

 わたしは石原慎太郎ではないから、中国人がいやがる「支那」の呼称をわざわざ使うことには反対だ。しかし、現代の尺度で過去の作品に手を加えてしまう態度はどうかと思う。日本人が中国にたいしこのような視線を持っていたという事実は事実としてそのまま提示すべきであって、波風が立つのを怖れてひたすら隠蔽しようとすることは差別意識の解消にはつながらない。

 このアルバムには、そのほか「夜霧の馬車」「迎春花」「北京の子守歌」などの古賀作品が多く収録されている。繊細にして無国籍なエキゾチシズムを放っていた服部作品にくらべると、俗物的な中国趣味をまとったおなじみのバタくさい古賀メロディで終始。古賀政男が結成した明治大学マンドリン倶楽部の伴奏曲もあって「李香蘭・ミーツ・古賀政男」の趣だ。

 同盤では「紅い睡蓮」のほかに、「迎春花」(インチュンホワ)「さくら咲く国」でも歌詞の一部が削除されている。「迎春花」は昭和17年(1942)に封切られた同タイトルの満映作品の主題歌で、中国語で歌われる2番がまるまる削除。「満洲」の文字が問題とされたのか?「紅い睡蓮」「迎春花」の2曲がノーカットで収録されているのは、現在のところ、20枚組CDボックス・セット『オリジナル盤による昭和の流行歌』(日本コロムビア COCP 30171-30190)のみ。ということは、よほどのマニアでないかぎり、これらをノーカットで聴けないことになる。「さくら咲く国」にいたっては本盤以外はCD復刻されていない。なんということ!

 じつをいうと、ここにとりあげた『私の鶯』でも「母は青空」という曲で日本コロムビアは同様の愚挙をしでかしている。笠置シヅ子「買い物ブギー」から「つんぼ」という箇所を削除したことも問題だが、李香蘭の一連の楽曲にたいし日本コロムビアがおこなった行為は「文化にたいする冒とく」であり「歴史の歪曲」といってもいいと思う。

 考えてもらいたい。李香蘭の全盛期である伝説の「日劇七まわり半事件」は昭和16年(1941)2月の出来事。ということは、彼女の全盛期をリアルタイムに体験したひとたちは80歳をとうにこえているはず。この世代が現在、李香蘭のCDの中心的な購買層であるとは考えにくく、つまり、李香蘭の音楽はもはや「懐メロ」として機能を果たしにくくなってきている。それらはすでに「アーカイブス」なのだ。だからなおさら、手を加えるなんてもってのほかである。

 日本コロムビアの悪行をいいたてるのにあまりに多くの行を費やしてしまった。ここからは李香蘭についてくわしく論じていくとしよう。



 李香蘭こと山口淑子は、大正9年(1920)、日本人を両親に中国東北部で生まれた。満鉄顧問として社員に中国語や中国の文化を指導していた父のもとで、淑子は幼いときから中国語、とくに北京官話を徹底的に教育された。李香蘭(リィ・シャン・ラン)は芸名ではなく、13歳のとき、家族で世話になった李際春将軍と淑子の父親とが義兄弟の契りを交わした証としてもらった名まえ。このころ、白系ロシア人のオペラ歌手マダム・ポドレソフのもとで声楽を学ぶ。そして、満鉄直営のヤマトホテルでおこなわれたマダム・ポドレソフのリサイタルに前座として出演したのをきっかけに、奉天放送局(アナウンサーはあの森繁久彌)からスカウトされる。こうして「満州新歌曲」を歌う14歳のラジオ歌手、李香蘭が誕生した。

 満映の女優としてデビューしたのは、北京留学を終えた昭和13年(1938)。ときに李香蘭18歳。以後、“日満親善”“五族協和”のシンボルとして数多くの映画に出演した。といっても、純粋な満映作品はじつは数えるほどで、『支那の夜』みたいに大多数の出演作は満映との合作または提携のかたちをとってはいても、主要スタッフはほとんどが日本人で実質的には日本映画だった。現地ロケ以外、セット撮影はほとんど日本のスタジオでおこなわれたという。

 そんななかにあってひときわ異彩を放っているのが、昭和18年(1943)に満映の製作、東宝のアレンジでつくられた“幻のミュージカル映画”『私の鶯』。帝政ロシアが建設した国際都市ハルビンを舞台にしたこの映画で、李香蘭は亡命ロシア人オペラ歌手に育てられた娘役を演じている。ハルビンにあった東洋屈指の歌劇団、交響楽団、バレエ団が総出演し、セリフも歌もほとんどがロシア語という異色作。しかし、時流にそぐわないという理由から結局、満州でも日本国内でも一般公開されることはなかった。

 この“幻の映画”で音楽を担当したのが服部良一。主題歌「私の鶯」は、ロシア管弦楽調のクラシカルな格調高い作風で、李香蘭の小鳥がさえずるようなコロラチュア・ソプラノもなかなか堂に入ったもの。『服部良一/僕の音楽人生』(日本コロムビア 72CA-2740-42)で、はじめてこの曲を聴いたときはクラシックくささが鼻についてあまり好きにはなれなかった。しかし、いまはちがう。ロシアと中国と日本の文化が錯綜する国際都市ハルビンをイメージしただろうこの曲を、日本人でありながら中国人として生活しロシア人から本格的に声楽を学んだコスモポリタンな李香蘭以外にだれがうたえたというのか。「私の鶯」は、ハルビン版「蘇州夜曲」なのだ。



 アルバム『私の鶯』は、全16曲中、前半の6曲が日本語で、後半の10曲は中国語。日本語の歌はすべて戦時中の録音だが、中国語のほうは4曲のみが戦時中で、残り6曲は57年に香港で録音されたもの。

 90年代はじめ、かつて上海にあって、のちに香港に拠点を移したレコード会社百代のヴィンテージな音源が「百代・中国時代曲名典」として香港EMIから豪華な装丁でつぎつぎに復刻された。そのなかの1枚に李香蘭のアルバム『蘭閨寂寂』(EMI/百代 FH 81017 2)があった。収録された15曲はすべて戦後の録音(57年か)のようで、そのうちの6曲は『私の鶯』収録の香港録音と完全重複。ただし、ロンドンのアビーロード・スタジオでリマスタリングされた香港盤のほうが音質では格段にすぐれている。なによりも制作者の、百代の歌手たちへのリスペクトがつよく感じられるのがうれしい。おのれの責任回避のみにとらわれている日本コロムビアの態度とは雲泥の差だ。

 戦後の李香蘭、正確には山口淑子の歌には、クラシック流のお行儀のよさがつきまとい、さすがにかつての小鳥がさえずるようなみずみずしさは薄らいでしまったが、戦後の日本録音とくらべるとクオリティは高い。なぜなら、かつて上海にあって、厳工上(イエクンシャン)、陳歌辛(チンワーシン)、黎錦光(リィチンクワン)とともに“中国の五人組”といわれた姚敏(ヤオミン)と梁楽音(リャンローイン)が数多くの楽曲を提供しているのだ。『私の鶯』収録の6曲は、なかでも伝統色よりもモダンな曲調が中心に選ばれている。姚敏の「河上的日光」「三年」、梁楽音の「分離」は李香蘭の清純な声質がよく生きたリリカルなバラード。そして梁楽音の「梅花」と欧文の「只有称(“のぎへん”でなくホントは“にんべん”)はメランコリーにあふれたラテン系歌謡の傑作である。

 つぎに『蘭閨寂寂』未収録の中国語の残る4曲についてふれておこう。
 昭和18年(1943)公開の中国映画『萬世流芳』は、阿片戦争の英雄・林則徐を主人公にした一大スペクタクル。李香蘭はこの映画で恋人を阿片中毒から救おうとするアメ売り娘を演じた。梁楽音の作曲で李香蘭がうたった挿入歌「売糖歌」(マイタングェ)は中国全土で大ヒット。中国調にモダンなスウィングの要素が重ねられたこの曲は、子守歌のように心地よいワルツ「戒烟歌」(ジィエイェングェ)ともども李香蘭の代表的歌唱といっていい。

 そして李香蘭の代名詞となった「夜来香」(イエライシャン)「売糖歌」のヒットを受けて、上海の新進作曲家、黎錦光は、民謡調の「売夜来香」と古歌「夜来香」をモチーフに、中国風の情感と欧米風の新しい感覚が絶妙にブレンドされたさわやかで軽快なルンバをつくった。この曲が大ヒットしたことのうらには「戦争に倦み疲れた人心を慰める〈清涼とした南風〉の感じ」があったからと後年、山口本人は語っている。なんでもこの感覚は中国語の原詞でないとしっかりとは味わえないらしい。

 李香蘭の歌手としてのクライマックスは、満映を退社して上海に拠点を定めた昭和20年(1945)の初夏、上海のグランド・シアターで開かれた「夜来香ラプソディ」の音楽会であろう。音楽監督・編曲は服部良一。日本や欧米の歌曲をとりあげた第一部と、中国歌曲をとりあげた第二部を指揮したのは、「薔薇処々開」(チャンウェイツウツウカイ)の作曲家として知られる陳歌辛。
 そして、第三部が服部の指揮、ロシア人とイタリア人の団員を中心とした総勢60人に及ぶ上海交響楽団による壮大なシンフォニック・ジャズ「夜来香ラプソディ」だった。ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」をつよく意識して、ジャズとクラシック、伝統と現代、東洋と西洋の融合を試みた。この組曲で服部は、戦後、笠置シヅ子の歌で大ヒットしたブギウギのリズムをはじめてとりいれたといわれる。この音楽会は、日本の敗戦は必至というムードのなかで、関係者がなかば捨て鉢気分になっていたからこそ実現にこぎつけられた“戦時に咲いた奇跡の花”といえるかもしれない。

 上海で終戦を迎えた彼女は、国民政府軍によって収容所へ連行されると中国人でありながら日本に協力した“漢奸”として軍事裁判にかけられようとしていた。銃殺刑確定といわれた彼女を救ったのは、幼なじみの白系ロシア人リューバが北京にいた淑子の両親から受け取ってきた1枚の戸籍謄本だった。



 戦後、山口淑子として日本で女優活動を再開すると、昭和24年(1949)から29年(1954)にかけてビクターとコロムビアにレコードの吹き込みをおこなう。これらの一部は現在、『山口淑子(李香蘭)/夜来香』(日本コロムビア CA-4383)のタイトルでCDにまとめられている。チャップリンの「ライムライト」を中国語でうたった「心曲」のみ57年香港録音(『蘭閨寂寂』収録)。

 注目はやはり、服部良一編曲による「夜来香」日本語ヴァージョン、本人の歌ではじめてレコード吹き込みされた「蘇州夜曲」、團伊玖磨が編曲した「何日君再来」の3曲だろう。
 「夜来香」は、発売された昭和25年1月の時点では、日本でもっともラテンぽく洗練された流行歌だったのではないだろうか。「蘇州夜曲」では「鳥の歌」とすべきところを「恋の歌」とうたっていて、それでは「美しい情景の広がりがそこなわれる」と服部は怒っている。「何日君再来」ともども、すでに旬を過ぎた感あって両手ばなしで絶賛というわけにはいかない。

 また、この編集盤には、日本コロムビアの発売ながら「夜来香」をはじめビクターの音源が4曲収録されている。彼女のコスモポリタンな特質がうまく生かされているという意味で、わたしはコロムビアよりビクター音源のほうがすぐれていると思う。本盤には未収録のビクター音源に、「東京コンガ」『リズムの変遷』(ビクター VICG60229-30)収録)と、「想い出の白蘭」『服部良一/東京の屋根の下』(ビクター VICL61066-7)収録)の2曲を知っている。これらは「懐メロ」には不向きかもしれないが、コロムビア盤収録のビクター音源「郊外情話」とともに「ポップス」の視点に立てば落とせない重要曲だと思う。

 日本コロムビア発売の3枚シリーズは、発売が89年と古いため音質がよくないうえ、前にふれたように無意味な修正が施されている。しかも「音楽ファン」ではなく「懐メロのファン」を想定した選曲・編集。リマスタリングと再編纂をつよく希望したい。あわせて、レコード化されなかった映画のなかの李香蘭の歌を集めたCDも発売してもらいたいところ。

 昭和の初めから30年ごろまで、コロムビアは質量ともに他のレコード会社を圧倒してきた。しかし、残念ながら現在の日本コロムビアにはこれら“宝の山”を活かしきれる能力をもった人材がいないようだ。なんとももったいない。ディック・ミネを「懐メロ」から解き放とうと試みるテイチクの爪の垢でも煎じて飲んでもらいたいものである。

 なお、アルバムの評価は音楽面だけでいえば★★★★☆といきたいところだが、上の不備から大きく減点させてもらった。


(7.6.04)

※その後、「さくら咲く国」のオリジナルSP盤をオークションで入手。不当に削除されていた2番の歌詞がわかったので参考までに示しておきます(聞き取りによる)。

「妾(わたし)ゃ 北京支那娘 夢に現(うつつ)に ひな菊の 花園招く あゝ あゝ 懐かしの国よ 乙女よ」

 問題になったのは、やはり“支那”だった。このうたは“乙女”の姿に託して“さくら咲く国”日本をほめたたえたもの。だから、歌詞内容は終始男性的な視線である。ところがこの2番の冒頭だけ、なぜか語り手が“支那娘”に変わってしまっている。“ひな菊”とは菊の御紋の意味だろうか。だとすると、“懐かしの国”とは日本を指し、“支那娘”は日本を懐かしい国と言っていることになる。しかも“乙女よ”と。
 もし、わたしが“支那人”だったなら、あまりのゴーマンぶりに怒りを通り越し、ひとこと“鬼子(グイヅ)”と言ってあざ笑ってしまうだろう。こういう差別感が、いまも小泉純一郎、安倍晋三、麻生太郎らに脈々と受け継がれているかと思うと、歌詞を削除したところでなんの役にも立たない。それより、かれらを削除したほうがずっと“さくら咲く国”日本のためになる。


(3.11.06)



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by Tatsushi Tsukahara